小川きもの散歩 3 〜小川町と富岡製糸場〜
食事の後は中庭の見える別室にて
小川町郷土史家・新田文子さんによる講演です。
↑よく見てください。。。鯉尽くしなんです!
さて、講演の内容ですが、
『官営富岡製糸場と近代製糸の先駆者・青木てる』について。
*近代機械製糸のはじまり*
江戸時代から農家の現金収入の手段として養蚕が広く行われていた。
明治初年、貿易の中心は生糸と蚕種であったが、幕末の開港以降、
売れる事を良い事に重さで価値が決まっていたので、少しでも高く
するために生糸を夜露に濡らして出荷していたそう。。。
乾くと勿論量が減るため、日本の生糸は信用を失って行った。
この信頼回復と輸出拡大の為に、良質な生糸を大量に生産する事が
求められ、諸外国の機械製糸技術を導入した。
富岡製糸場は日本で初めての総煉瓦づくりの2階建て。
明治5年の建設以来、現在どこも修理する必要がないほど
当時の日本の技術がいかに素晴らしいか伺える。
*難航した伝習工女の募集*
指導者がフランス人のため、葡萄酒の色から娘の生き血を飲むとの
噂が広まり、1人も集まらなかった。勿論、明治の女性が
外で働く事自体がありえなかったのもある。
初代所長・尾高惇忠は日本全国の各市町村に募集の手紙を出し、
小川町の青木てるが賛同し、糸くりをいしている農家を訪ねては新しい
技術習得の必要を熱心に話し協力を求め、30名近い娘さんを
まとめて孫娘のけいと共に富岡へ向かった。
集団は、頭は桃割れ、姿は着物を尻っ端折り、大荷物を抱え、
しかも時期は夏、小川から富岡までは徒歩で3日もかかったそうで、
その光景は異様だったそう。
*伝習工女の生活*
出身:明治40年の調査では氏族が40%で名主、戸長、豪農、華族の
子女も多かった。
労働状況:1日7時間45分。電気がないので日の出から日没まで。
賃金:当時としてはかなり高額で、1等工女:2円50銭。7等:75銭
ランク別に配当されていた。1円でお米が1斗5升7合が買えた。
厳しくきついという印象があるが、資本主義になる以前だったので
「ああ野麦峠」のような労働条件ではなかった。
寄宿生活は恵まれており、自由が認められてた。
履いている草履の高さ(畳重ね)によって階級が分かれていた。
*郷土への伝承*
開業に尽力し工場が軌道に乗った明治7年、てるとけいは帰郷。
富岡式の新しい繰糸法を村の人たちへ指導したのは、
てるの意志を継いだけいであった。後、小川で作られた生糸も
『小川生糸』として横浜から外国に輸出された。
小川は桑が育つのに適した土壌で、乾燥している地域の為
薪(燃料)も良く採れた。明治43年に紅絹の生産が始まる。
以前,京都のかも川でないと『赤』が出ないと言われていたが、
小川の水質は良くキレイな染めが出来た。
(国産の絹以外ではそうキレイには染まらないらしい)
*おわりに*
配られた資料と新田さんの口頭をメモした物をまとめてみました。
富岡製糸場は転々と民間が経営していたため、
当時の記録が全くないそうです。もちろん、小川の女性が
創始に貢献していたなんて現地のガイドでは一切語られないそう。。。
勤めていた工女の日記をたよりに新田さんは研究をしたそうですが、
あくまでも日記なので聞き伝えの部分は間違いが多いそうです(笑
もっともっとお話伺いたかった〜♪
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コメント
いつも写真の美しさにため息です~。
二葉の本館、華美すぎずいい雰囲気でしたね。
昭和初期にタイムスリップしたかのようでした。
新田さんのお話とても面白かったですね。私ももっと伺いたかったです。
青木てるさん、明治のキャリアウーマンとしてもっと有名になってほしいです。
子孫のかたもいるそうですよ。
投稿: koedo | 2009.04.22 01:15
◆koedoさん
いえいえ、数打ちゃ当たる、といったところでしょうか?(笑
二葉、HPから受ける印象とは全く違う物があり、
ため息ばかりついておりました(笑
新田さん、小川の郷土史の書籍を執筆しているようですね、
手に入る物ならば、読んでみたいです!
お話も上手でとても分かりやすく、小話も挟みつつ、、、
青木てるさんについてもっと詳しくなりたいです!
投稿: shioring | 2009.04.22 01:36
富岡製糸場には2年前に行き、色々とガイドさんに聞きましたが
小川町の話は一切出ませんでしたよ。
でも、ここを見ると小川町の女の子はいっぱい行ってたようです。
http://www.city.fukaya.saitama.jp/lforte/odakayuu.html
考えてもみませんでしたが富岡製糸場に集まるのに当時は徒歩だったのですね。
しかも真夏。。。
それはかなりきつかった事でしょうね。
また富岡製糸場へ行きたくなってきました(^^ゞ
投稿: たくあん | 2009.04.22 20:44
◆たくあんさん
そうみたいです、新田さんも同じ事仰ってました。
リンク先拝見しました。小川からがダントツですね!
そして我が地元からも数名行っている!!!!!
あ〜お話を伺いたいです。。。ってもうお孫さんとかの代でしょうけど。
そうなんですよ!私もぼんやり話を伺っていて
『徒歩!?そうか、明治初年の移動手段は徒歩か!!!』
と、ビックリしましたよ(笑
そうとうな決断だった事でしょうね。
投稿: shioring | 2009.04.23 00:37